こんばんは!
今日は嫉妬深い性格を変える方法についてです。
といっても私が嫉妬深いタイプだったわけではなくて、嫉妬深い人々に出会う中で感じてきたことです。何か参考になるかもしれないと思いまとめてみました!
ポイントは主に10個です。
1.強欲な自分を自覚する
嫉妬深い人は強欲だなと感じることがあります。
恵まれていないからこそ嫉妬してしまう人だけでなく、それなりに恵まれていても嫉妬してしまう人っていますよね?
それなりに恵まれていても嫉妬してしまう人というのは、より強欲である可能性が高いとすると、その強欲さを自覚することがまず必要だと思います。何事も、自分の立ち位置を正しく把握することが改善解決の第一歩だからです。
私たちはどうしても自分を基準に世界を見てしまう部分があって。強欲だという自覚があれば、強欲な人間は嫌われがちだし少しは慎まねば!と思えるかもしれませんが、皆こんなものだろうと思っていたら、欲しがって何が悪い!大して欲しがってもいないし他の人だってそうなのに!!となりますよね?そしてそこまで強欲だと人に迷惑を掛けていても気づけなかったり、酷い場合は人の人生を踏みにじってまで手に入れようとしてトラブルにもつながりますからね。
強欲か否かも生まれつきの要素がありますし、強欲だからこそ何かを頑張れたり特別なものを手に入れられる面もあるので、自分を全否定する必要はないと思います。しかし大人なら欲をコントロールする意識は必要。
また、欲にもいろいろな方向がありますが、内面的充実がメインの強欲な人よりも、何かを手に入れてそれを見せびらかすことがメインの強欲な人の方が攻撃的で周囲に悪影響を与えがちなので、より気を付ける意識が必要と感じます。
2.自分のことを疎かにしない
嫉妬するという行為は、ある意味他人を必要以上に気にして生きている状態だと思っています。
そして他人を必要以上に気にしているということは、その分自分を気にする暇がない=自分のことが疎かになってしまっているということ。そして自分を疎かにしているがゆえに成長できず、嫉妬する相手との差はどんどん開いていく。最悪の場合、他人の粗探しをしてこき下ろし自分を正当化する能力だけはとんでもなく磨かれ、嫌われ、老害と化していく。
ゆえに嫉妬せずに生きるためには、自分のことをもっと気にする必要があると思うんですよね。
これまで私はピンからキリまで様々な集団に属してきましたが、誰でも入れる集団は治安が悪く、入るのが難しい集団は平和な傾向が顕著にあって。後者がなぜ平和なのかというと、自分のやるべきことや自分を高めることに一生懸命な人が多く、そうした生き方をしていると他人ばかり気にしている暇が自動的になくなるから、というのがひとつの理由だと感じてきました。
また、自分自身を振り返ってみても、嫉妬深いタイプかどうか以前に嫉妬している暇などなかった!というのが一番しっくりくるんですよね。
それに自分が今やるべきことや自分を高めることを優先してやっていかねば!と考えたとき、誰かに嫉妬する行為をまず思いつく人、そして実践しようとする人っておそらくいませんよね??
ゆえに、「他人のことを気にしすぎずに生きよう」を実践するのは難しい人であっても、「自分のことを疎かにせずに生きよう」を実践する、すなわち、自分のやるべきことややりたいこと楽しめることを考えて必要な行動を起こしていけば、それだけで自然と嫉妬心から遠ざかることができるはずです。
3.他人の評価を真に受けすぎない
嫉妬深い人を見ていると、他人の評価を真に受けすぎているのでは?と思うことがあります。
他人の評価って、例えば字が汚いのに「達筆ですね!」とか、髪が薄いのに「フサフサですね!」、高校偏差値40なのに「成績優秀ですね!」などと評価されることはないですよね?すなわち、どう見ても該当しない点についてはお世辞すら言われることがないという意味では、他人の評価って至極妥当なものだと思います。
しかし上記のように本人がどう足掻いてもごまかせない評価しやすいケースを除くと、正しく評価するっていろいろな意味で優秀な人でないと難しいことだと思うんですよね。例えば、パワハラ問題が至る所で起きているのも、高い地位にふさわしくない中身の人間が猫をかぶって誤って評価され放置されてしまった結果とも言えますよね?
ゆえに、他人の評価を真に受けすぎないことも大切だと思います。しかも、実際の良し悪しよりも自分にメリットの大きい方を良しとする人もいて、そういう人々は自分の都合に合わせて評価をコロコロ変えるのでなおさらです。
ちなみに私の場合は、見る目がない人や信用に値しない人の評価は自分の中で自然と省いている感じでしょうかね笑。例えば、自分を棚に上げた人の発言は信用に値しないのでスルー、といった感じです。
そして他人を正しく評価できる優秀な人は少ないからこそ、本当に自分の能力が高いなら、自分に合うまともな集団を探して移ることも大事になりますし、明らかに相手に非があるのに自分の非にされるような場合には戦う必要もありますね。
4.嫉妬して他人をこき下ろす行為は自分のコンプレックスの宣伝であると知る
嫉妬して他人をこき下ろすような人々は、自分を棚に上げている人ばかりだなと感じてきました。
例えば、
- 他人の真心に対して偽善だ!と言う人は、善意のかけらもない人
- 学歴があっても仕事ができなくちゃ意味がない!と言う人は、学歴もなければ仕事もできない人
- 愚痴その他ネガティブな発言を一切受け付けない/否定する人は、ささいなことにもグチグチ言うネガティブで弱い人
- そんな資格を取っても意味ない!大した事ない!と言う人は、その資格を取れる能力すらない人
- 他人の体型をけなす人は、誰がどう見てもスタイルが悪い人
- 嫌いな同性について、異性に媚を売っていると言う人は、本人が誰よりも異性大好きでモテたくて媚びを売っていて、でもモテない人
- 努力や配慮は影ですべきと言う人は、大した努力も配慮もしておらず表でアピールされたら困る人。その上、他人の陰での努力や配慮に気づける能力もない人
これらは私が実際に出会ってきた人々です。
一見すると相手に言っているようであっても、言っている内容は実は本人のコンプレックスであり、自分を正当化したいだけなのだろうと感じてきました。自分がすでに持っている要素あるいは自分にとって重要でない要素なら、わざわざこき下ろしたりしないはずですからね。
例えば、異性に興味がない人だったら、他の同性がどれだけ異性に媚びていようが関係ないですし。容姿端麗な人だったら、何もしなくたって外見を褒めてもらえますし。学歴もあって仕事も出来る人だったら、学歴がなくて仕事も出来なかろうが、学歴があって仕事が出来なかろうがどうでもいいことですし。
そもそも他人をこき下ろさないといけない=本人に能力がない証拠で。人の足を引っ張ったところで相手の能力が下がることはなく、自分の能力が上がることもなく、誰かの足を引っ張るという発想にはならないのが優秀な人なわけで。
本人は上手くごまかせているつもりであっても、能力ある人には確実に見破られて敬遠されているはずです。
自分のコンプレックスを晒して回って他人を巻き込んで攻撃するとか恥ずかしい&迷惑極まりないですし、自分の価値を下げたくないのなら今すぐ行動を改めることをおすすめします。
ちなみに私は上記のように他人をこき下ろすこと自体が嫌いとはいえ、根本的に感覚が違うと感じます。ざっと以下のような感じです。
- 真心のある人は少ないとしても確実に存在するし、そうした貴重な人は大切にしたい!
- 学歴がなく仕事も出来ない人は少なからず存在するので、勉強か仕事のどちらかでも出来ればすごい!
- どんな資格であれ、他にもやるべきことがたくさんある中で勉強して結果を出せたってすごい!
- ネガティブな要素とポジティブな要素が混在するのが現実世界であり、どちらか一方ということは決してない。ゆえに愚痴その他ネガティブな発言を一切受け付けない人は、ネガティブな現実に向き合えない弱い人であり、現実をきちんと見ていないために考え方も未熟と感じる。
- そもそも愚痴とは、ネガティブな要素が含まれている発言のことではない。例えば、「ダイエットしなきゃいけないのにまた食べすぎちゃった、はあ~(暗い顔)」。この発言を日々繰り返しているだけで何の行動も起こさず太ったまま……のような、何の生産性もないネガティブ発言こそが愚痴だと思う。こんなことをし続けるくらいなら、ダイエットに囚われず体重はひとまず現状維持で良しとして、美味しい物を見つけて食べることを楽しんで、美味しいものは周囲とシェアして生きた方が素敵に見えて得なのではないか?人生が充実した結果、ダイエットも上手く行く可能性があるのではないか?あるいは、断捨離など全くの別方向から攻めてみるのはどうか?(部屋を片付けると体重減少する人が少なからずいるらしい)
- 世の中には悪人や理不尽な出来事というものが確実に存在する。それについて述べた発言は単なる事実であって、愚痴にも悪口にも該当しない。また、そうした理不尽な被害も多い人と少ない人が存在する。被害が少なければ平気な人でも、被害が増えたら耐えられなくなる人がほとんどだと思う。目の前の相手がどちらの人なのかによっても愚痴の意味は違ってくると思う。
- 上記に加えて、失敗その他ネガティブな話や経験から学べることは非常に多いので、私の中で単なる愚痴だと思う発言はそこまで多くない。それに、自分の気持ちに寄り添ってもらうのは嬉しいことなので、自分も他人の気持ちにより添える人でありたいと思う。
- なぜそこまで異性にモテたいのか?老若男女問わず素敵な人は素敵なので異性に肩入れする理由がわからない。それに異性にモテたところでもらった分の愛を一人ひとりに返せる余裕はない。となると、一対一の対等な関係ではないので相手に対して失礼ゆえに嫌!
- 努力や配慮はすることに価値があるので、実際にしたのなら自由にアピールすればいい。そもそも、陰での努力や配慮に気づける優秀な人は少ないので、ある程度は表でしないと損するだけだと思う。
5.嫉妬して足を引っ張る行為は他の人に任せる
嫉妬して足を引っ張る行為を止めたいけれど自分をコントロールできなくて……という人もいるかもしれません。その場合の対策も紹介します。
それは、嫉妬する対象(Aさんとします)の足を引っ張る行為はすべて他の人に任せて、自分は別の何か楽しいことや成長に繋がることなどをして過ごすということです。
これはどういうことかと言うと、嫉妬される人とされない人って偏りがあると思うんですよね。例えば学校や職場で考えたとき、嫉妬されて足まで引っ張られるのは一部の限られた人ですよね?少なくとも多数派ではないはず。すなわち、嫉妬されて足を引っ張られる人はしょっちゅうされるし、されない人はあまりされないはずです。
とすると、あなたが嫉妬して足を引っ張っているAさんは、他の人からも被害を受けている可能性が高いということです。今現在もあなたが気づかないだけでAさんは誰かに足を引っ張られている、あるいは、これまでの人生でさんざん足を引っ張られてきた。そしてそんな苦しい状況でも前向きに生きているAさんの足をさらに引っ張ろうとしているのがあなた、ということです。
こうした行為は、別の視点で言いかえるなら、何の罪もなくても、ただでさえ酷い目に遭っていても、容赦なく叩かれるという世知辛い社会づくりに貢献しているということでもあります。
他人の足を引っ張ることに必死になるような人たちは、世知辛い世の中をさんざん嘆きつつ、実は自らがそうした世の中の元凶になっているということです。
以上をまとめると、
Aさんは他の人からもさんざん足を引っ張られているので、あなたがわざわざAさんの足を引っ張る必要はないということ。そしてそうした自分を貶める愚かな行為は他の人に任せておいて、あなたはあなたの人生を充実させればいいだけ!あなたにとっても世の中にとってもプラスになるので一石二鳥!
この対策は、実践したからといってAさんが守られるわけではないので、おそらく抵抗なく実践できるという点でもおすすめです。
6.人は生まれた時から不平等であるという現実を受け入れる
この辺は他の記事に書いて来たこととも重なりますが、嫉妬とも非常に関わりが深い部分だと思うので改めて書いておきます。
日々のニュースを見ているだけでも、人そしてその人生は決して平等ではないことは明らかだと思います。
不平等とは例えば、
- 人生100年時代と言われるようになった現在でも、生まれてすぐに亡くなってしまう人はいる。
- 若いころから次々と病気にかかる人もいれば、亡くなる直前までずっと元気な人もいる。
- 後進国に生まれて飢餓や紛争に悩まされる人もいれば、先進国に生まれてそれらとは無縁の日々を過ごせる人もいる。
- 良い家族に恵まれて何不自由なく育つ人もいれば、家族に恵まれず虐待されて体を壊したり進学を諦めたりする人もいる。
- 他人の人生をさんざん踏みにじっても幸運に恵まれる人もいれば、何の罪もないのに殺されてしまう人もいる。
- 容姿端麗で何を着てもサマになり行く先々でちやほやされる人もいれば、容姿に恵まれず何を着てもパッとせず行く先々でいじめを受けるような人もいる。
しかし嫉妬深い人々は、こうした現実に気づけずあるいは受け入れられず、過剰な平等意識を持っていると感じるんですよね。
そして、過剰な平等意識が嫉妬を招くと感じる瞬間といえば、例えば有名人の誹謗中傷。
有名人が誹謗中傷されても「有名税なんだからそれぐらい我慢しろ!」とか、二世タレントさんだと「親の七光りめ!」といった意見をしばしば見かけますよね?
こうした発想って、自分たちより多くお金を稼げているのだから/裕福な家庭に生まれて自分たちより楽していい思いをしているのだから、その分足を引っ張られるぐらいでないとあまりにも不公平だ!といった発想を根本に感じるんですよね。
なぜなら、そうした発想がなければ、有名人か否かに関わらず誹謗中傷はNG!ですし、二世タレントさんに限らず環境に恵まれた人はそれを存分に活かして良い人生を送る自由がある!からです。それに優秀な親を持つということは、その子どもも同じくらい優秀でない限り「親と比べると…」と何かにつけて言われるわけで。決して楽なことばかりではないはずですしね。
良い遺伝や良い家庭を自ら選んで生まれてくることは不可能で、本人には何の責任もないことで。それに、自分が遺伝や家庭に恵まれなかったことと他人が恵まれていることとは何の関係もないことで。恵まれている人相手なら足を引っ張っても良いなんて、単なる八つ当たりであり理不尽の極みでしかないと思います。
唯一責任があるとしたら自分の親なので、文句があるなら親に言うしかないですね。そして子どもに良い遺伝や家庭を与えられる自信がないのなら、子どもが同じことで苦しまないように、どんなに自分を否定されたとしても子どもは絶対に作らないというのが筋の通った生き方という気がします。
いやいや、2世タレントたちは実力もないのにちやほやされているからダメなの!という人もいるかもしれません。しかし世の中実力よりお金やコネがモノを言う部分ってありますからねえ。有名人のお子さんというだけでインパクトがあるので単なる一般人より売れやすいですし、お子さんを大切に扱っておけばその親である有名人にも出演してもらえたり良いコネを紹介してもらえる可能性もありますし。
実力に応じて評価されないというのは非常に残念なことですが、世の中私利私欲にまみれた人間が多いので、そこはある程度の諦めが必要なんじゃないかと思います。そして、自分が評価されやすい場所を探すあるいは自ら作っていく姿勢も必要と感じます。
過剰な平等意識が嫉妬を招くと感じる瞬間、一般人同士の場合についても挙げておきます。
例えば、同じ職場に属している同じ性別の人間というだけで同じ扱いを要求する人。自分以外の誰かが自分より少しでも優遇されていると感じるとすぐ不公平だひいきだと騒ぎ立てたり嫌がらせをするような人って存在しますよね??
しかし実際は、
- たまたま同じ職場に属しているというだけで、同じ人間など一人もいない。
- その職場に属するまでの経歴も違えば、職場以外で過ごしている環境も違う。
- 職場では仕事が出来る人が優遇されるのは当たり前。
- 外見にしろ内面にしろ良い人がちやほやされるのは当たり前。
- 生まれ持ったキャラの違いなど努力ではどうにもならない部分もある。例えば、全く同じことを言っても許される人と許されない人は存在する。
- 人間関係では相性の良し悪しが非常に重要。ゆえに優れている方や付き合いの長い方が必ずしも良い扱いを受けるわけではない。そして相性の良い相手と悪い相手とではどんなに気を付けていても態度が違ってしまうのが人間というもの。
これらのことをすべて無視して、自分とあの人は同等に扱われるべき!というのは無理な話であり、そういう本人すら実践できないことで。そんな実現不可能な理想は諦めて、自分に出来ることを地道にやりつつ、自分を評価してくれる人を大切にして生きていった方がいいと思います。
類似の内容がこちらの本にもありましたので、その箇所を引用しておきますね。
(文庫)小さいことにくよくよするな! (サンマーク文庫 G- 46)
人生は不公平、が当たり前(P53~)
人生がいかに不公平かという話をしていたとき、友人にこう聞かれた。「人生は公平だなんてだれが言ったの?」。彼女はいい質問をした。
それで子供のころに教わったことを思い出した。人生は公平ではない。それは不愉快だが、ぜったいに真実だ。皮肉なことに、この事実を認めると気持ちがすっと自由になる。
私たちがしでかす思いちがいの一つは、自分や他人を気の毒がることだ。人生は公平でなくちゃならない、いつかそうなるべきだ、とつい思ってしまう。
だが、人生は公平ではないし、そんな日がくるはずはない。いったんこの思いちがいにはまると、人生が思うようにいかないことにくよくよしたり、人と傷をなめ合って人生の不公平についてグチを言い合うことに時間をとられるようになる。「まったく不公平だよな」と人はよくグチをこぼすが、そもそも人生とは不公平であることに気づいていないせいだろう。
7.人生が不公平であることと理不尽な出来事とは区別して考える
過剰な平等意識を持つ人々の中には、理不尽な出来事に声を上げることとの区別が出来ていないケースもあるように感じます。
例えば、自分が何をやっても上手くできない人間だったとしても、パワハラ、モラハラ、セクハラ、いじめ、暴力などを受けたのなら、一人の人間としてきちんと尊重してもらうべく声を上げる権利があり、泣き寝入りする必要はない。一方で、周囲の人と同じくらい好意的には接してもらえないといったことは、人生不公平の問題、ゆえにある程度は諦めるしかない。
弱者に優しくない世界ですからね。様々な場面であるいは行く先々で、周囲の人と比べて好意的に接してもらえないとすると、相当なストレスを感じてもそれは当たり前のことだと思います。しかしそれをただ諦める、すなわち人生の不公平を受け入れるしかないというのも酷だとすると、他の部分でストレスを減らせれば、多少なりとも良いのではないだろうかと。
ゆえに弱者が感じるストレス全体で考えた場合、格下とみなした相手には失礼なことをしてもいいと勘違いしている人間が相当数いることが、弱者のストレスを増大させていることは間違いない!とすると、そうした勘違い人間をきちんと教育していくことも重要という気がします。相手の格の上下に関わらず、人に失礼なことはしないよう気を付けるのが大人として最低限の常識ですからね。
こうした質の悪い人間が減れば、人生の不平等や嫉妬問題の改善にもつながると思います。
8.上下に拘り過ぎず人生を楽しむ
嫉妬深い人というのは、自分も世界も他人との比較や上下で見がちと感じることがあります。
集団の中でも、自分らしく楽しんだり自分のやるべきことを頑張ったりすれば良いのに、他人を貶めてでも自分の立場を上げること、好きな対象に気に入られること、自分のやり方に従わせることに必死になる。地位や権力ある人・好みの人にはすり寄って持ち上げて愛情や感謝や親しさを異常にアピールする一方で、気に食わない人には裏で攻撃・排除したり、そのために日頃から根回しして、他人を操作あるいは支配することで自分の力を示そうとする。
こういう人間が一人でもいると集団の平和が損なわれがちで。本人は自分が上になるために必死なだけなのかもしれませんが、傍から見たら、いつも独りよがりに誰かと争っていて精神不安定でアピールもうるさくて鬱陶しい存在であり、自分の欲を満たすために周囲を巻き込んであちこち引っ掻き回す迷惑な存在であり、いい年して自分をコントロール出来ない恥ずかしい存在であって。結局のところ、人に嫌われるために/自ら格下になるために頑張ってしまっている、という意味で大いに損していると思います。
他人を利用せずに自分の欲を満たすことをもう少し考えた方が成長できる、という意味でも損でしょうかね。人を利用せずに自分の欲を満たすにはどうすればいいのかというと、上記2で挙げたように、自分のやるべきことややりたいこと楽しめることに力を入れること。その方が、自分に実力が付いて生きやすくなるだけでなく、人からも愛されるはずです。
また、上下に拘り過ぎる人の中には、何でも自分が上あるいは一番でないと気が済まない人もいますよね。しかし世界的な超スーパースターでさえ、常に一番になることは不可能ですからね。凡人がそれを目指すなんて身の程知らずで時間の無駄!という点でも損していると思います。
9.人生最期の瞬間について考える
それでもどうしても上下に拘ってしまう……という場合には、人生最期の瞬間について考えてみてはと思います。まだ若いからといって人はいつ死ぬかはわかりませんからね。考えてみる価値はあると思います。
人生最期の瞬間に自分の人生を振り返ったとき、「(身内の/近所の/学校・職場・趣味などで一緒だった)○○さんよりマシな人生でした!!!」と言って満足できるのか?ということです。
- ○○さんよりマシだとなぜ分かるのか?目に見えるものは案外少ない。目に見えない他人の事情までは知る由もなく表面的なことでジャッジしているに過ぎない。そのジャッジも的外れな可能性は十分ある。優秀な人は他人を必要以上に気にしない、ゆえにいちいちジャッジなどしないから。
- ○○さん自身はすごく幸せだと感じているかもしれない。○○さんにとっての幸せとあなたにとっての幸せは決して同じではないから。
- 人生最期の瞬間を迎えているあなたとは違って、その頃○○さんは友達と元気に旅行を楽しんでいるかもしれない。その場合、○○さんの方が幸せとも言えるのではないか?
- ○○さんを知らない人からしたら、○○さんって誰?どちらがマシかなんてわからない!国内どころか県内ですら○○さんを知らない人の方が圧倒的に多い。そこに何の意味があるのか?
目先の不確かなことにばかり囚われず、もっと広い視野を持って、他の誰かではなく自分自身と戦って自分の人生を生きた方が良いと私は思います。
10.自他の区別を明確にする
嫉妬深い人を見ていると、自他の境界線がすごく曖昧というか、自分と他人は別人であるということを根本的には理解できていないのでは?と感じることがあります。
例えば、「人に恵まれて感謝!」のようなことを発信している人を見かけますが。こういうことにも嫉妬心を感じる人はおそらくいますよね?
私はこれまでのところ、残念ながら人に恵まれてきたとは言いがたい日々でしたが、上記のような発信に嫉妬はないですね。そもそも人生は不公平だと思っている上に他人と比較するのが嫌い!というのもありますが、それらを差し引いて考えてみても、発信者と自分とは違う人間であるという意識が強いからだと思います。
良い人間関係というのは一方的な好意では成立しないもので。お互いに好感を持てる相手だからこそプラスの循環が生まれる。すなわち、人に恵まれていると言ってもそれは発信者にとって周囲の人々が良い存在であり、発信者の周囲の人々にとっても発信者が良い存在であるという話であって、自分では意味がない。ゆえに自分にとっての良い人に出会いたいと思うことはあっても、それ以上のことはないといった感じです。
こうした感覚のせいなのか?子どもの頃から、具体的な誰かになりたくて行動したという経験もないですね。すごく憧れる人に出会えていたら違っていた可能性も否定はできませんが、現実的なタイプなのでその可能性もやはり低いかなと。永遠になれることがない他の誰かを目指すより、自分のことは自分に合わせて考えて、ベストな自分を目指したいんですよね。
ゆえに、自分と他人とは別人であるということをきちんと認識することも、嫉妬深さの改善に役立つ気がします。
まとめ
以上10のポイントを挙げてみました。
何か参考になる内容はありましたでしょうか?
特定の誰かに向けて書いたわけではないので、納得できない内容や当てはまらない内容も当然あると思います。そこは一旦スルーして、納得できる内容を実践なさってみてはと思います。
いずれにしても、どんな人であれ、今持っているものや与えられた環境の中で出来ることをやっていくしか自分の人生を良くする方法はないという点においては同じはずです。
ゆえに大切なのは、不平等な現実を受け入れた上で、自分を正しく把握し、自分の人生を良くするために何ができるかを考えて行動すること。また、「良い人生」と言っても個人差が大きく、自分が満足できるかどうかが肝心なので、自分にとって良い人生とは何なのかをきちんと考えることなんじゃないかと思います。
大きなハンデを背負った人にとってはとんでもなく厳しい人生で、そこを否定する気は一切ありませんが。それでも生きて行く道を選んだのなら、自分に出来ることを地道にやっていくしかないと思うんですよね。もちろん、すべてを本人やその周囲の人々の責任にするのではなくて、社会がそうした人々の受け皿をもっと作っていく必要もあると思っています。
ちなみに弱者についての考え方は、これらの本を読んで影響を受けた部分もあります。
どうしても頑張れない人たち~ケーキの切れない非行少年たち2 (新潮新書)
恵まれない人々の厳しい現実と、それを少しでも何とかしてあげたいと頑張る人々。自分がどの立場であっても読む価値ある内容だと思います。
では素敵な夜を!
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